- 2010/01/02(土) 03:10:14|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
実家に帰らない正月というのは、それはそれで穏やかでのんびりとしている。
街にはあまり人がいない。24時間営業の東急ストアは休みだ。ブックオフはやっているがなじみの古本屋は休み。スタバはあいている。盆栽の移動販売は姿を見せないが、big issueは売りにでている。。いつもとは少し違う自由ヶ丘。
相変わらず本を読んだりしている。
「データ、プロセス、ローカリティ」というテーマのシンポジウムが秋にあった。
建築設計のプロセスが、例えばBIMの登場などで大きく変わりつつあり(全部ひっくるめて言えば情報化なのだが)、そのような新しい技術が大量のデータや複雑な条件を、より簡単に扱うことを可能にしている。前提条件の複雑さをなるべくそのまま設計のプロセスに反映できるのなら、その条件の違いというものがもう少し、建築の形態なり建築の在り方に表れてくるかもしれない。だとすれば条件の違いを生み出す一つの元となっている、場所の違いやコンテクストの違いが差異を生み、ひいてはローカリティの違いを反映させた建築を生み出す可能性を見出せるかもしれない。タイトルと絡めると、そういう議論をしようという思惑が少なからずあったと思われる。話はみんなそれぞれ面白くて、山梨さんも中山さんも、スタンスの違いを強調しつつ、とても魅力的なプレゼンをした。
(残念ながら連続企画されていた、五十嵐淳さん参加予定の会は研究室の都合で参加できず.悔やまれる)
そこではっきりしたのが、一言で条件といっても、何を設計の条件として見出すかというところが人によって全然違うということ。自分自身、こいつはこうだ、という断定とか、単純な二元論は好きじゃないけど、あくまで傾向として言えば、やっぱり組織設計とか大手ゼネコンとかは、基本的にスペックが全てなんだと。だからスペックに関わる条件しか基本的に条件にならない。スペックというのが元々確固としてあって、それを向上させればいい。それは建物の性能としてとても大事で、大手はそのへんに対する信頼感と、それを実践する確かな技術力には圧倒的なものがある。一方でアトリエはおそらくはバブルの箱もの乱立のときに社会的な信頼を失ってしまったこともあってか、基本的にそういったスペックを抑えられないと思われているようだ。そっちは後回しというふうに見られがちである。
BIMの登場によって設計のさらなる効率化が起こると、大手ですら人員削減が必要になる。建築にたずさわる人はそんなに沢山要らない。そんな状況だとか弱いアトリエなんてますます窮地に追いやられるんじゃないか。
本当にそうだろうか。そうは思わない。
BIMは今のところスペックの向上に非常に向いている。スピードも含めて。図面をかけば立体が立ち上がり、温熱環境等の様々なシュミレーションも容易に行える。シュミレーションまでやったことはないが、図面作成の圧倒的なスピードアップは使ってみて肌で感じた。もう少し使いこなせるようになれば、例えばおそらく図面作成に関してなら、数人分の仕事は全部一人でこなせるようになる。最低限の資金さえあれば、「高性能住宅」は誰にでも簡単に作れるようになる。スペックの価値が既に決まっているのであれば、それはとても容易いことだ。「スペックが決まっていれば」。
最近は環境と関わる姿勢でさえも、省エネ指標という、わかりやすいが本質的かは少し疑いたくなるようなスペックに置き換えられようとしている。
建築家のもともとの仕事はその先にある。スペックなり価値をつくりだし、示すこと。その前提すらくつがえすこと。何気なく広がるクローバー畑さえも条件に入れてしまうこと。(住宅だからそういう条件にも目を向けられる、組織の扱う大きな建物と比べるのはおかしいという反論も、この例えに関しては一理あることは認める)それを住宅に参加する大事な主体のひとつとみなして豊かさに変えてしまうこと。種々の想像力、意味。そこに生まれる価値。
環境負荷に対するスペックを満たしていて、さらにそこには風や光や熱との詩的な戯れがある。そうであれば誰も文句は言うまい。というより豊かなことだ。あとはコストの問題か。
藤村さんが、北海道に学べということを言っていたのも、基本的なスペックをおろそかにしてはそもそも居住が成り立たない環境が、全ての建築家に前提として性能を求め、そのなかで新たな豊かさや価値、空間を思考することが建築の社会的な厚みを生み出している状況を指してのことだろう。
高性能の建物は誰もが短時間で作れるようになる。
その恩恵を利用して、既存のスペックをクリアしつつ、さらなる想像力と価値の探求に突き進めるとすれば、それは建築家にとっていいチャンスじゃないか、と思うのは、学生であるが故の楽観にすぎるのだろうか。
- 2010/01/01(金) 03:50:12|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:2
明けましておめでとうございます。
2009年最後粘ろうと思ったけど、やっぱりあっという間に明けてしまいました。
今年は久しぶりに東京での年越しだから、あんまり実感わいてませんが。
今年もよろしくお願いします。
さて、「年始の決意」はせめて初日の出を浴びてからにするとして。。
再販されたルドルフ・オルジアティの作品集がやっと届きました。
三時間くらいスタバで見入ってしまったけど、素晴らしい。本自体もかっこいいし。
超レア本だったということで自分には縁がないと思ってあきらめていたのに、まさか再販されるとは。ついでに篠原一男の作品集も再販されないだろうか。ボリュームの扱いとか立面のつくりかたとかが本当にいいなあと思う。あと階段の作り方がおもしろい。基本的なところは外してないけれど、チャレンジングでとても自由に見えます。「お面」の話じゃないけど、定型に則りながらの自由を良く体現している、彼の建築たちは。
忘年会で再会した友達が、三ヶ月のヨーロッパ旅行の成果、膨大なスケッチをまとめた一冊の分厚い本を見せてくれました。それがとても素敵で。彼はもともとスケッチがうまいというのもあるんだけど、旅の最初と最後では、スケッチの質が大きく変わっていて。絵の技術というよりは、何を線にするかというところが大きく違うのかな。本人も言ってたけど、何を書くべきかだんだんわかってきたと。
最近特に建築を実際に見に行きたいという衝動が強くて、年末に谷口吉生の法隆寺宝物館とか、その父吉郎のホテルオークラとか見に行ったけれど、その立派な本を通して、自分にとって、スケッチひとつすることの意味を改めて考えさせられた。
吉生さんはやっぱり、面が強くて、ファサードをきちんとつくる人だけど、今回新しく面白いと思ったのは、「大きな空間の体験的分割」という考え方。大屋根は大きいスケールだけれど、入り口の高さをかなり抑えたり、そういうところはきちんとしてるから、つらくない。そして「大きな空間の体験的分割」というのは、これから説明する一つの仮説。導線にしたがっていくと、その大きな空間に何回か、それぞれ別のかたちで再登場することになる。まずエントランスホールから入って、展示を見てるうちにブリッジとかでまたその空間にでくわして、最後にまた違うところからその空間に戻ってくる、といった具合に。それは何かこう、自分の身体の位置と空間との関わり方の想像力を、体験を通して埋め込むということなのではないかと思う。
ホテルオークラもすごく感動したけど、眠くなってきたので、改めてまた。
- 2009/12/22(火) 05:09:27|
- 日常|
-
トラックバック:0|
-
コメント:5
前回の日記が一ヶ月前。
研究室で手伝わせてもらった住宅が、サイトで広告されて一段落。その直後に窓のリサーチ本が完成して、建築の”クリシエ”をテーマにしたエンリケ・ウォーカーのワークショップがあって、ある会社相手にプロジェクトのプレゼをして、映画を何本か集中して見て、何冊かの小説を読んで、1960年代以降の都市論を何冊かまとめ読みして、いくつか作品をつくって、突然始まったAAとのワークショップを楽しんで、彼らと別れたのが一昨日か。一ヶ月ちょっとはざっとこんな感じだろうか。
・分譲住宅のサイトはこれ。→
http://www.yamatedai.net/hiraku/
実際には契約が完了してから実施設計に入る。
・窓のリサーチのまとめとして、今回は窓のもつコンセプトを抽出するということをした。コンセプトとして取り出せばそれは今度はそれがデザインの問題になることに気づく。窓のいろんな形式や大きさや厚さや、窓周辺のものとの関係は、その窓が何を扱い、何をしようとしているのか、どういう考えをもっているのかという視点でみると、いくつかのまとまりに見えてくる。この手続きは論文と同じだ。
で、原さんの「集落の教え100」はまさにコンセプトブック。あれは本当に面白くて、ほとんどのコンセプトは、人間のちっぽけな身体性なんかほとんど気にもとめないような、もっと大きな自然とか環境に対する知恵みたいなものとして提示されているところがいい。
そして先生によるコンセプトブック、「空間の響き/響きの空間」は色んなもののありかたやものとの関係についての想像力を開いていくことの驚きや豊かさ、知性が凝縮されている。「お面」と「居候」の考え方が好き。前者は定型の持つ豊かな意味や知恵を引き受けながら新しいものを生み出して行くことの楽しさと価値。後者は人間がある秩序をもった家に居候すると捉えることでより柔軟で寛容な、住宅と人間の新しい関係への眼差しについて。やっぱり何か人間が主役じゃなくてもいいような空間が、結局は人間にとっても息のつまらない、居心地の良さにつながるんじゃないかという考えは、卒業設計の時から続いているし、「deploma exhibition2009」のフリーペーパーに寄せたエッセイ、「身体性を超えて」というのは、そういうことに繋がっているんだと思う。
今はその辺の想像力をさらに切り開いて行くような、論考や言説を探しているところ。
・映画。「Les Parapluies de Cherbourg」、「life is beautiful」、「二十四時間の情事」、「我が教え子、ヒトラー」「The Shawshank Redemption」、「重力ピエロ」、「Cars」(笑)昔の名作とか全然見てないから、まだまだ時間がかかりそう。。
・AAとのWSはたった4日たらずだったけど相当楽しかった。実は想像以上に共通の意識を持ってて、誰と話してもここまでちゃんと建築の議論ができるとは思ってなかった。ロンドンには行ったことがないけれど、問題意識としてどこか似たものを共有しているんだろうなあ。
このWSは結果的に最終的なアウトプットもチームによって様々で、リサーチを通してどう都市を読んだかというような知的ゲームをするところもあれば、割に具体的なプロジェクトを提示するというのもあって、でもまあどのチームもとても興味深かった。「フォトコラージュ」が方法のしばりであったが、コラージュをつくりながら都市を読むというのは、まさに都市のあり方に身をおくひとつのやりかたで、今までとは違った、「コンテクストを動的に捉える」という感覚に少し近い。
とにかくロンドンの連中がもたらしたこの知的な刺激は、年末気分のゆるみかけた頭にはそれなりに効いたみたい。
自チームのリサーチ対象地区だった品川周辺は、よくよく観察してみると、もう悲しさを通りこして開き直って笑っちゃうくらいダメダメな都市で、いろんなことがうまくつながらず、いろんな時間がうまく噛み合っていない、そう映る。でもそんなことはおかまいなしに超優良企業のオフィスが次から次へと集まるし、相変わらず交通の要所としての重要度は増すばかり。かたや何千という豚や牛がトラックで運ばれてきては、オフィスビルの建ち並ぶそのど真ん中で食肉に変えられて行く。モニュメンタルな東口の広場は、強い軸性をもった道路が海岸まで開けていれば、まだリスボンの矮小番くらいにみなしてもいいのかもしれないけど、実際見えるのは東洋水産のビルとまるちゃんのマークのみ。これはもう笑うしかない。色んな力は持ってるはずなのに。そこで自チームは食肉加工場をリニアに駅と高層オフィス群、運河を横断するようにつきさして、ばらばらに孤立しているものを無理矢理衝突させるという提案をした。品川みたいに時間をうまく都市のなかに内包できていない場所を、東京のなかでもう少し発見できるとすれば、修士制作は何かそういうことをテーマにやってみたい。そんなことを考えている。
そう簡単に2009は終わらせないぞ。
品川4発
- 2009/11/14(土) 15:25:17|
- 未分類|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
これは少し昔の話でもあり、少し真面目な”返答”である。
三大学合同好評会で岸健太賞を受賞したとき、岸さんから二冊の本をうけとった。
ひとつはテトラスクロール。バックミンスター・フラーが自身の思想を絵本というかたちでまとめた、なんとも不思議で示唆に富んだ本。フラーがどうやって世界に向き合っていたかがかかれているといっても大げさではないように思う。
もうひとつは「1984年」。1949年に出版されたジョージ・オーウェルの本だ。
抑圧された全体主義の行く先を描いた話。今はもう過去になってしまった、1949年からみた未来の1984年。その未来である1984年でさえ、自分は生まれてもいなかった。ビックブラザー、テレスクリーン、勝利ジン、ジューリア。。
物語のほとんどは、不気味な静けさとともに進んで行く。進んでいるのかもわからない。そのほとんどが暗くて冷たい。文学史の位置づけやそれに対して成された批評は、wikiにある通りらしいけど、それはそれで、今はそんなに重要ではないのかもしれない。
全てはもやがかかったように、全体的に灰色っぽくて、ひたすらに抑圧された息苦しさと、それとは正反対の白がたくさん混ざったエメラルドグリーンのような描写が、読者に必要以上の期待を抱かせないよう、注意深く綴られて行くような、そんな印象の物語。
そんな世界感の構築が進行していくなかで突然現れたジューリアの、「あなたを愛しています」というあまりにもシンプルな言葉は衝撃的で、一瞬その言葉の意味がわからない。その言葉はいったいどういう意味だっただろう、それくらいジョージ・オーウェルの描いた世界はそういうことを排除したものだったし、140ページかそこらでそんな世界に引き込んでしまう言葉の力を感じられずにはいられない。
この本が何故選ばれたのか。読み終えたあともしばらく消化できずにいたが、ユートピアであれディストピアであれ、未来を見通す確かな眼差しをもち、その世界を文章で構築するという社会的な責務を自らに課したジョージ・オーウェルというその人を、偉大な創作者のひとりとして、向きあわせたかったのだと思う。それがあくまでもディストピアであったということが、ものをつくる楽しみにとりつかれながらも、社会や世界の、目を背けてはいけない暗く冷たい部分をいつも頭の片隅においている岸さんらしい教えなのだろうと思います。そして未来にかかわるという。これはあくまで僕の感想ですが。
そしてそのすぐ後で、空前のベストセラーとなった村上春樹の1Q84。
初版が2009/05/30で、合同好評会が2月の終わり。ジョージ・オーウェルの「1984年」がどれだけタイムリーに僕のもとへやってきたのか、驚きとともに、気味が悪いくらいだ。
ミーハーに聞こえて構わないが、村上春樹は自分の中で別格で、その出会いも本当に偶然。
本を読むなんて全く縁の無かった自分が、大学一年の時にどういうわけか、ふと読んでみようとまとめて借りてきた村上龍のなかに一冊まぎれていた「ダンス・ダンス・ダンス」。村上ちがい。世間知らずの僕は村上春樹なんて当然知らなかった。多分今もそんなもんだろう。知らないことは知るまで知らないから。
何が好きで何がいいのかわからなかった不安な時期を少し通り越して、最近許せないことも多くなってきた。同時にそれが、そのものが持っている、潜在的な力を見つけにくくするフィルターとしてはたらかないよう、対象ときちんと向き合う必要性を感じている。今は少し違う種類のリアリティで建築をつくることに興味を持ちはじめた。
本を受け取って9ヶ月も経ってしまった今、やっとこのような返事を書こうとパソコンを開けば、月に水があったとかで世界は騒ぎだした。ものごとは連鎖している、ように見える。近いうちに月が二つ見えたらどうしよう。
それでもフラーとジョージ・オーウェルのかいた二つの物語は、そんな世界と自らが力強く向き合って生まれたものだったし、青豆だって、そうしようとしている。
- 2009/10/12(月) 02:28:31|
- 日常|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
横浜美術館で行われたチャリティーコンサートと展示が無事楽しく終わりました。
開場して最初のプログラム説明のときに今回の展示のことを言ってもらうなど、やっておくべき手回しがうまくいっておらず、それは反省。そういう仕込みは周到にしないとせっかく色んなことを考えて用意したものが十分に活かせられなくなる。
あのような場所で、建築のプロジェクトを伝えるために、じゃばらの絵本のような形式をとってパンフレットのように持ち帰ってもらう方法をとってみたが、それは見せ方として正解だったと思う。せっかく持ち帰っていただいたので、メールなどの反響がいただけたら嬉しいなあ。。
ひとつ気になったのは、会場の設営から展示物の管理、もののレイアウトに関して、致命的にデザインの思考が欠けていること。段取り含め。
ミュージシャンと色々話せておもしろかった。自分の周りにはあんまり本気で音楽やってる人がいなかったから。話してみるとやっぱり本質的なところは近い。作家についてとか、ものづくりの姿勢とか。音楽は乗り越えていくものだからあまり保存したくない。という言葉は新鮮だったけど。コンセプトではないんだ。彼にとっての音楽は。
目の前でかっこよく演奏する彼らの雄弁さと比べると、展示で建築をプレゼンする自分はちょっと分が悪いか。いやそんなことはない。ただ表現した空間の奇麗さとか、コンセプトを理解してもらった手応えは、確かに感じた。建築の想像力とか表現力で切り込もうというアプローチは、チャリティーコンサートという場所とプログラムに対して、結構いい刺激を与えられたのではないかな。
このアイデアが実際にハイチに送られるということなので、また人の心を動かすことができるといい。
打ち上げは合唱の嵐。乾杯も解散も全部合唱。ほんとに歌うのが好きなんだなこの人たちは。
こんな愉快なおじさんたちは始めてだ。色んな大人に出会えるのは刺激になる。素敵な大人がいっぱいいるんだ。若い人だけでも大人だけでもダメなんだな。
DTIブログって?
次のページ